+ セヴィニエ夫人を訪ねて +

ルイ14世治世下、図らずも“書簡作家”として活躍した、セヴィニエ夫人。
彼女の足跡を訪ねてみませんか?

Marquise de Sevigne
Marie de Rabutin-Chantal, Marquise de Sévigné (1626 -1694)

 後のセヴィニエ夫人、マリー・ド・ラビュタン=シャンタルは、古いブルゴーニュ貴族の家柄である父ラビュタン=シャンタルと富裕な商人の娘との間に、1626年5月2日パリの中心王広場 Place Royal(現在のヴォージュ広場 Place des Vosge)1番地の屋敷で生まれました。幼い頃に両親と死別し、母方の親類であるクーランジュ家Courangeで育てられました。著名な家庭教師達に師事し、その聡明さと美しさによってパリのサロンの話題となっていました。

 1644年、マリーはアンリ・ド・セヴィニエ侯爵と結婚しました。セヴィニエ家は古いブルターニュ貴族の家柄で、当主であるアンリは美男でした。翌々年、最愛の娘フランソワーズ・マルグリットが、その2年後に一人息子シャルルが生まれますが、当時の有名な娼婦ニノン・ド・ランクロの愛人でもあった放蕩者の夫アンリは、1651年に女性を巡る決闘により命を落とし、セヴィニエ夫人は寡婦となりました。セヴィニエ夫人は子供達を連れてパリに戻り、再びサロンの華として注目を集めます。宰相マザランの側近フーケ、幼馴染みでもあるラファイエット夫人(「クレーヴの奥方」作者)、文学サロンを開いていたスキュデリー嬢、「箴言」のロシュフコーなど一流の文化人との親交も深まっていきました。

 そんな彼女が今日「書簡作家」として脚光を浴びるきっかけとなったのが、愛娘フランソワーズ・マルグリットの結婚でした。「フランスでもっとも美しい娘」(従兄弟のビュッシー=ラビュタンの言葉)と評判であった娘がプロヴァンスの副総督であるグリニャン伯爵の3番目の妻として迎えられ、プロヴァンスの城へと旅だったのです。溺愛していた娘の旅立ちにセヴィニエ夫人はひどく悲しみ、週に何度も愛の溢れた手紙を書き送るようになりました。その手紙の中で、パリの流行や新しく造られたヴェルサイユの宮廷の話、彼女がたびたび滞在したヴィトレ Vitré 郊外にあるロシェ城 Château des Rochers の自然などを娘に紹介していました。また、友人達にもウィットに富んだ手紙を書き送り、その活き活きとした描写は次第に評判となっていきました。

 セヴィニエ夫人は晩年娘の嫁いだグリニャンの城に移り、そこで1694年に亡くなりました。彼女が残した手紙は1100通あまり。そのうちの約800通が娘フランソワーズ・マルグリットに宛てたものでした。彼女の死後、孫娘によって出版されたその手紙は、当時の文化や宮廷生活を紹介する資料として、また優れた書簡文学として、現在も多くの人々に読まれています。

 

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